16 王様の胸飾り

 由良川流域行で鏡と言えば「景初四年」の年号を持つ、福知山市広峯15号墳から出土した盤龍鏡を思い浮かべる。しかし、ほかにも11枚の鏡が出土していることは、あまり知られていない。今回は、そのうちの1枚を紹介しよう。

 広峯15号墳の調査と同じ1986年、15号墳の東にあった寺ノ段古墳群の調査が行われた。古墳時代初頭に造られた2号墳で、幅4.0m長さ6.3mの巨大な墓穴が見つかった。古墳時代の始まりを告げる有力者の墓であろうか。期待を抑え、慎重に調査を進めた。

 1mも掘り下げただろうか、ようやく木棺の跡が確認された。棺内の土を取り除くうち、うっすらと赤みがさす。朱だ、いよいよ底も近い。続いて、青黒い何かが顔を出した。

 青銅のようだ。鏡か? 鏡にしては円くない・・・

 結局、出土したものは、直径11cmの方格規矩鏡と呼ばれる中国製の鏡の半分だけであった。なぜ半分だけなのだろうか。

 よく見ると、鏡の破片は丁寧に磨かれ、紐(ひも)を通す小さな穴があけられている。ペンダントにされていたのだ。王者のシンポルとして、王様の胸で不思議に輝いていたのだろう。

 当時、鏡の輸出国であった中国が戦乱の中、鏡の入手が困難になり、鏡を割って数を増やして使ったという説がある。

 しかし、日本には銅鐸を作る優れた技術があった。ぺンダントなど簡単に作れただろう。わざわざ鏡の破片を大切に使ったのは、鏡の持つ不思議な力を信じていたのであろう。そして、鏡に映る大陸の文化や権威を見ていたのだろうか。国際社会の一貫として海の向こうの大陸を意識していたのである。中国製の鏡を使うことが大切であった。

 また、鏡片は九州から瀬戸内を中心に出土する。鏡片を分け合った地域的なまとまりがあっだのだ。この鏡の片割れは、どこかの王様が胸に抱いて眠っているのだろうか。

小さな鏡の破片であるが、当時の人々の交流の様子や、世界観を雄弁に物語ってくれる。その声に耳を傾けるかどうかは、私たち次第である。(崎)

17 刻まれた鹿角

 写責をじっくりご覧いだたきたい。これは福知山市の石本遺跡(北近畿タンゴ鉄道宮福線の牧駅周辺)から出土した鹿の角である。

 ただの鹿の角ではない。枝角を除去した鹿角の草特部を丁寧に削り込み、その側面に幾筋もの平行線を刻んだものである。現存長25cm。上下両端を空け、中間部15cmほどの間に1ミリほどの間隔でびっしりと計44条の線が刻まれている。見るからに奇妙な代物で、何かしらマジカルなシャーマニックな気配が漂うではないか(奇妙なものが出るとすぐ祭祀=さいし=や呪術=じゅじゅつ=と関連づけるのはよくないが)。実はこれ、考古学の世界では「刻骨(こっこつ)」と呼ばれ日本及び朝鮮半島南部で計23例ほど見つかっているものである。

 刻骨は弥生時代から古墳時代にかけて用いられたもので、石本遺跡のものは古墳時代後期(6世紀後半)の大きな溝跡から多量の木製祭祀具とともに出土したものである。なお、刻骨の材質として牛や馬の骨も使用されるが、そのほとんどは鹿の角でできている。

 さて、この刻骨であるが、実はその用途がよく分かっていない。刻線部分に摩滅痕跡が認められる例が多いことから、その摩滅痕は、そこを何かで擦ったものと考える。ここから導き出されるのは楽器説である。すなわち今でもお祭りなどで使われる「ササラ」のような楽器を想定するものである。

 また、刻線の数に往目し、刻線に記号や符号としての意味を見いだそうとする考えもある。あるいは、意味のある数を記憶するために刻線を付けたのだというユニークな説もある。ちなみに、石本遺跡のものぽ刻線が44もあり、刻線の数としては今まで見つかったものの中では一番多い。44という数字に何か意味があるのだろうか?

 次はト骨(ぼっこつ)説で、すなわち占いの道具と考えるものである。しかし、ト骨は、我が国に限らず大陸の例をみても明らかなように、主に鹿の肩甲骨を使い、骨の表面に焼いた木の枝を押しつけて骨を焦がし、できた亀裂の形態で占いを行うのが通例である。獣の骨のかわりに亀の甲羅を用いること(亀ト)はあっても、刻線方式のものは聞かない。このようにその用途には諸説あるが、いずれもいまだ決定力を欠く。(まあ、この際、何に使ったのかなぞのままでいるのも、かえって神秘性があっていいではなかろうか)しかし、素材として鹿の角が用いられているのには意味があるようだ。鹿の角は落ちてもまた生えてくる。それを一年周期で繰り返す。そのことに、古代人は強い再生力を意識していたようだ。鹿は、彼らにとって単に狩りの対象であるだけでなく、神秘的な力を秘めた聖獣なのである。(近)

18 焼けた住居

 これは生々しい火災現場の写真である。モノクロ写真で分かりにくかろうから、実測図も併せて掲げよう。焼土や炭と化した木材が散乱しており、まさに家が焼けた直後の状況を示している。

 本来ならここで消防署の出動を願い、出火場所・出火原囚の特定など、現場検証が行われるところである。しかし、これは今から1800年前(弥生時代の終わりごろ)の住居跡なので消防署の管轄外であるらしい。

 この住居跡は、青野西遺跡で多数検出されている古代の竪穴式住居の1つで、現在の綾部市立病院建設時の発掘調査で見つかったものである。消防署の調書風に記せば以下のようになろうか。

・物件=竪穴式住居1棟(直径7mの円形住居、床面積38平方m、築後何年かは不明)

・所在地=綾部市青野町大塚20‐l(ただし、当時の呼び名は定ならず・所有者等不明〉

・状況=全焼(住居の壁際にドーナツ状にみられる焼土と炭化材は住居の壁が焼け落ちたものと推定)

・出火時間=西暦200年ごろ(詳細な日時不明)

・出火場所=不明(中央部炉跡付近か?)

・出火原囚=不明(失火?放火?)

・消火活動等=委細記録なし

・火災による死亡・けが等=無かったものと思われる

 何ともたよりない調書であるが、発掘調査搬告書によれぱこんなものであろうか。火災原因などまったく分からないのであるが、これがもし放火だとすれば次の2つの場合が椎理される。

 まず第1は戦争によって焼かれた場合である。弥生時代というのはそんなに牧歌的な状況ではなく、ムラ同士の間にかなりの緊張が漂っていたらしいことが考古学の研究により明らかにされている。第2に考えられるのは意図的放火である。意図的といっても火災保険が目当てではない。

 住居を廃絶するときに焼却処分にしたのではないかということである。あるいは疫病でも流行(はや)ったので家ごと焼き捨てたのかもしれない。

 発掘現場では何にでくわすかわからない。このように時には火災現場にも遭遇し、そうした場合には詳細な調書をとらなけれぱならないのだ。これが発掘「調査」である。(近)

19 投槍

 今回の話題は、「投槍(なげやり)」であるが、別に「なげやり」な話ではない。写真は、綾部市西原町出土の石器である。長さは10cm程度で先端を尖(とが)らせている。

 サヌカイトと呼ぱれる鋭利な石材でできているから、これでプスッとやられれば、かなり危ない代物である。ちなみにこれと同種のものは舞鶴市の小橋(おぱぜ)や福知山市の奥野部(おくのべ)でも見つかっている。この石器、考古学の専門用語では、「有舌尖頭器」と書いて「ゆうぜつせんとうき」と読む。まるで、戦闘機が舌を噛(か)みそうな名前である。まったく、考古学者って変な名前付けるよね。要は槍先として使われた石器のこと。木で出来た柄の先の部分に固定するために、基部に茎(なかご)と舌状の突起をつくりだしたものである。木製の柄の部分は腐ってなくなってしまい、先瑞の石の部分のみ残ったものである。

 この種の石器(槍先)は、今がら約1万年ほと前、考古学で・旧石器特代と呼ばれる時代から縄文時代に変わろうというころに流行(はや)ったものである。この時期は地球環境も大きく変化しセいる。最後の氷河期(ヴェルム永期)が終わり、地球が再ぴ暖かくなり始めるころである。生態系も大きく変わり、それまで狩猟の対象であったナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣は少なくなり、代わってイノシシやシカなどのより小型でそれゆえ俊敏な獣を狩りの対象とせざるを得なくなっオこ。狩りの方テ去も大いに変化したのそある。

 人類最初の狩猟具は槍だが、先端の石器部分は最初は重くて大きいものであった。従って、獣に接近して槍を手に持ったまま獣に突き刺すしか方法がなかった。ところがイノシシやシカでは、相手が昼寝でもしていない限り、こんな芸当は出来ない。そこで先端の石器部分を軽くし、投鎗として使用出来るようにしたのが、この有舌尖頭器であると考えられている。いわば人類最初の飛ぴ道具であるわけだ。

 投槍なら離れた位置からでも獲物を仕留めることが出来る。しかし、そうはいうむのの、やはりある程度接近しないと、はなはだ命中率は悪いし、投げる距離や速さの限界もある。より遠くへより速く一この命題を解決するために、飛び道員としてさらに進化したのが、弓矢である。人々は有舌尖頭器の技術を用いて、さらにこれの小型軽量化をはかり、石鏃(ぞく)と呼ばれる矢の先端部を作った。この投槍から弓矢への移行は意外なほど速く、縄文時代の始まりとともに、あっという間に彼らは槍を捨て弓矢を持つようになった。有舌尖頭器とは槍から弓矢への過渡朔的産物ともいえるだろう(槍は、弥生時代に入って青銅製のものが武器として再び登場するまで姿を消すといわれている)。

 より遠くへより速く、そのための工夫一これは人類が食料を獲獲得するために必死の思いで考えたことである。ところが、いつの間にか、これが武器・兵器としての工夫にとって代わるのである。より遠くへより速くに、さらに「より破壊力をもって」が付け足され、やがて鉄砲、大砲、そしてミサイル、しかも核弾頭付きのになる。有舌先尖器を使っていた西原の人たちは、無論こんなことまでは予測していなかっただろう。もし、彼らが現代のこの状況を聞かされたとしても、きっと彼らはこう答えるよ。「そんな、あんた、1万年後の未来のことにまで責任もて言うちゃっても、そら一、ちと困るんやけどなあ」(近)

20 王様の好物

「これはアユの骨ですよ」。奈良国立文化財研究所の松井 章さんは、いとも簡単に教えて下さった。

 綾部市豊里町荒神塚古墳から出土した魚の骨のことだ。平成6年夏、綾部市資料館では「食」をテーマに特別展示の準備を進めていた。食べ物自体は、腐りやすいものだから遺跡の中で残っていることはあまりない。それでも縄文時代の貝塚では、シカやイノシシなどの動物の骨や貝殻、魚の骨などが残っている。これらは福井県鳥浜貝塚のものを借用した。低湿地では、ドングリやクリ、クルミなどの硬い殻をもった植物が残っていることがある。これらは舞鶴市桑飼下遺跡のものを借用した。

 ところが、地元綾部で出土したものが何もない。何かないものかと収蔵庫の中を探してみた。あった。「荒神塚古墳出土」と記された魚の骨があった。

 しかし、その時点では魚の種類は知る由もなかったのである。

 現在の豊里中学校の北方、犀川に面して茶園が広がる丘がある。ここにはかつて三宅古墳群という多くの古墳があった。なかでもひときわ立派で、三宅1号墳とも呼ばれる干古墳が荒神塚古墳であった。今はその面影はない。ここかリタは昭和36年に鏡や鎧(よろい)・刀・馬具・土器など数多くの副葬品が出土した。その内容は私市円山古墳に勝るとも劣らない。私市円山古墳に遅れること約50年、やはり由良川中流域を支配した王様の1人に違いない。その土器の中にアユが納められていたことになる。

 多分、勇猛果敢な荒神塚古墳の王様も由良川を愛し、由良川で捕れるアユに舌鼓を打っていたのだろう。だから永い眠りについた王様に供えられたのも好物のアユだったのである。松井さんのひとことで、荒神塚古墳に眠る王様が身近な人に思えてきた。(三〕

 

21 おしゃべりな須恵器

こんちは!

私「すえき」ちゅうもんです。

 今日は、おまえ何か自分のことしゃべれちゅうもんやから、ええ歳してちょっと照れるけど自己紹介さしてもらいますわ。ま、よろしゅうたのんます。

 さっきも言うた通り、私は漢字で書くと「須恵器」と書くんです。まぁ、読み方によっては「すえのうつわ」なんちゅう、ちょっとかっこええ呼び方もあるんですけどな。それとその使い道から高杯(たかつき)ちゅうミドルネームももろとります。ようするに土からできた「器(うつわ)」みたいなもんで、今、皆さんが使こぅてる茶碗(わん)や皿の遠い祖先に当たりますねん。

 ただ、高杯ちゅうもんは、今ではあんまり残っとらんで、名残をとどめているのは、せいぜい優勝カップぐらいかなぁ。寂しい限りですわ。

 私が見つかったは福知山市榎原のカヤガ谷古墳群ちゅう、お墓の発掘調査でしてな。

 久々に見た太陽のそら眩(まぶ)しかったこと、なんせ1500年ぶりですからなぁ。そんときの姿は、そらひどいもんで脚や縁は割れてどっか行ってしもて皿の半分はどでしたんや。それを、器用なもんで石膏(こう)で無いとこを作り、きれいに色まで塗ってくれて、まぁちょっと昔の形とは違うところもあって気にはなるんやけど‥…・うれしいもんです。

 え? おまえどっから釆たんやって。よう聞いてくれました。実は私、今の大阪府堺市に当たる陶邑(すえむら)ちゅう、日本で最古・最大の須恵器生産コンビナート生まれですねん。そう、都会子なんやで、そこいらの田舎須恵器と一緒にはせんといてや。せやのにこんな遠く離れたれた丹波の奥のもうひとつ奥に行くとは思いもせんかったわ、ほんまに。

 話は変わるんですけど、私ら須恵器の永遠のライバルに土師器(はじき)ちゅうやつらがおりますねん。こいっら自分らが縄文土器に始まる日本代々の「器」の代表やゆうていばりくさるんですわ。

 確かに私ら古填時代の中ごろに朝鮮半島から伝わった技術で作られた、まぁゆうたらハーフみたいなもんやし、歴史の古さでゆうたら土師器に負けます。ただ、ここで皆さんによぉ−覚えとってほしいんは、私ら登窯で高い温度で焼かれて作られたから、すっごう硬とぉて丈夫なんですわ。やつらなんて、すぐに割れるわ水に溶けるわで、そらひどいもんでっせ。せやから、私らの仲間うちでは土師器なんて勝負にならんちゅうとります。

 え? ことばが過ぎるって。もうしゃべんなって、そんな殺生な!

しゃあないなぁ。あ、ほんなら最後に私と一緒にカヤガ谷古墳で見つかった須恵器仲間を紹介しときます。この写真の前列右側に居るの私です。かっこよろしやろ。後ろにおるんが私の!姉貴分にあたる「饗(かめ)」さんです。頚(くび)んところに、きれいな波形の紋様が入って、そら麗(うるわ)しい姿でっせ。それと左に居るんが弟分の「杯(つき)と蓋(ふた)」です。あんまり取り柄が無いけど堅実で、真面目なやつらです。

 ほな、またお目にかかれるのを楽しみにしてますわ。おおきに、さいなら。(八)

22 土器はなぜ飾る

 ここに福知山市興・観音寺遺跡から出土した一つの壺がある。赤茶色で柔らかな感触のものだ。長い間土の中に埋まっていたためか表面が風化して判りにくいが、よく見ると全体に細かな装飾が施されている。直線や曲線の細かな線、ボタンのように小さな粘土が貼り付けられている。

 土器はまず、粘土の紐を作り、紐を積み上げて形を作る。形ができた後、表面がきれいになるように丁寧になでて、文様を描く準備をする。

 形が崩れないよう少し乾燥させる。いよいよ飾り付けである。どんな文様を描こうか。

 土器をスムーズに動かすために、作業台と土器の間に木の葉を1枚敷いておく。ヘラを土器に当てて、土器を回転させる。ヘラを動かさなければ水平に線が引ける。上下に規則的に動かせば波線が引ける。

 貝殻や櫛の歯など、凹凸のあるものを粘土に押し当てれば、その形が転写できる。

 櫛を使えば、細い平行した線が一度に引ける。直線文、波状文、扇形文、格子状文、S字条に連続した流水文。櫛の歯の数を変えれば、数条から十数条まで色々な幅の平行線が引ける。櫛歯を強く押し当てれば、小さな点が連なった列点文。

 ヘラで線刻する。三角形を連続させた鋸歯文。単純な刻目、綾杉状に刻目を組み合わせる。細竹の腹を使えば、太いU字形の凹線が引ける。切り口を押しつければ円い跡が残る。円盤や棒状の小さな粘土を貼り付ける。粘土の帯を巻き付けて凸帯を作る。 

 色々な文様が組み合わされて、土器は飾られる。

 今から2000年前、弥生時代の中頃の土器である。すべての土器が飾られているわけではない。飾られた土器は、祭りに供えられたり籾を蓄える壺などに限られている。ちなみに、土器を飾る文様は、祭りの道具である銅鐸を飾る文様と同じである。文様には、なにか不思議な力があったのだろうか。(崎)


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