このページは、1994年6月4日から、地元、両丹日日新聞、綾部市民新聞、舞鶴市民新聞の各紙に連載された「由良川考古学散歩」をまとめたものです。

 当HPに掲載するにあたって、レイアウト・写真等に若干の変更を加えています。ご了承下さい。

号数

年 月

タイトル

遺跡名

時 代

地域

001

1994.06

人と川と歴史と

002

1994.07

第二の道具

十倉志茂・張田遺跡

縄文

綾部

003

1994.08

イモ穴? 横穴墓?

栗ヶ岡古墳群

古墳

綾部

004

1994.09

洪水の日

桑飼上遺跡

古墳

舞鶴

005

1994.10

装身具は嫌い?

桑飼下遺跡

縄文

舞鶴

006

1994.11

謎の穴-二人の主張-

三宅遺跡

弥生〜古墳

綾部

007

1994.12

小さな石室

下山古墳群

古墳

福知山

008

1995.01

蛇行する剣

奥大石古墳群

古墳

綾部

009

1995.02

木と石の棺

カヤガ谷古墳群

古墳

福知山

010

1995.03

最後の竪穴住居

多保市遺跡

奈良

福知山

011

1995.04

嫁入り道具

青野遺跡

弥生

綾部

012

1995.05

古代の眺め

河守遺跡

奈良〜平安

大江

013

1995.06

緑の光沢

小西町田遺跡

平安

綾部

014

1995.07

馬と竈

長遺跡

飛鳥

綾部

015

1995.08

山城と竹林

三庄太夫城ケ腰遺跡

中世

舞鶴

016

1995.09

王様の胸飾り

寺ノ段2号墳

古墳

福知山

017

1995.10

刻まれた鹿角 New

石本遺跡

古墳

福知山

018

1995.11

焼けた住居 New

青野西遺跡

弥生

綾部

019

1995.12

投槍 New

西原町

旧石器

綾部

020

1996.01

王様の好物 New

荒神塚古墳

古墳

綾部

021

1996.02

022

1996.03

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これからぼつぼつUPしていきます。

1 人と川と歴史と

 人間の暮らしにおいて、川とは単に水が流れるだけのものではない。人々は河川から様々な恩恵を受け、また時には被害にも遭ってきた。

 弥生時代より、例えば水田を潤すため、必要な水を河から引く。また不要な水が生じれば川へ流す。こうした引水排水のほか、「水運」という言葉の示すとおり、水系は人や物資の往き来するところでもある。この要素は、陸上交通の十分な発達がみられない大昔ほど重要な意味をもっていた。川は文化を運ぶものでもあった。

 例えば、遣跡の分布図をみてみると、遺跡が水系に沿って分布し、水系を通して相互に関連しあっていることが判る。私市円山古墳は、眺めのよさだけであのような丘の上に造られたのではない。眼下に生命線たる由良川を見下ろしていることが、王墓として重要だったのである。

 由良川は、丹波・若狭・近江の国境にある三国岳の麓(ふもと)にその源がある。丹波山地の山々を削り深い谷を刻んで、途中、山間盆地を形成しながら西へと流れ、福知山で土師川と合流して流れを北に変え、大江・舞鶴西部を経て日本海へと注いでいる。

由良川河口

その延長は146キロ、流域面積は1880平方キロ。近畿北部を代表する河川である。

 由良川流域には数多くの遺跡があり、近年開発の進展に伴ってその調査機会も増えた。ここ10年で100を超える調査件数のなかで、いろいろと興味深い発見もあり、またひとつの発見が新たな謎(なぞ)を呼ぷこともあった。由良川水系で繰り広げられる歴史の絵巻を、数々の遺跡(の調査)を通して、みなさんと舟に乗ってこれから眺めていこう。本流のみならず支流からさらにその分流にまで入り込んでみよう。(近)

由良川(綾部市付近、東から)

 同コーナーの水先案内人は、綾部と舞鶴、福知山3市と大江、三和、夜久野の3町の教育委員会に勤務し、この地域の発掘調査に携わる人たちでつくる「由良川考古学研究会」のメンバー。「やや怪しい案内人ではあるが、舟が山に登ることのないよう頑張りたい」と抱負を語っている(編集部)

2 第二の道具

綾部市口上林地区は、縄文時代に作られた不思議な石の道具が多い地域です。十倉志茂遺跡でば石冠が、すぐ近くの張田遺跡では石刀が何本かかためて埋められており、大切に扱われていたことがわかります。この石冠や石刀と呼ぱれる不思議な遣具はいったい何なのでしょう。

  

        十倉下遺跡出土石冠            張田遺跡出土石刀

 縄文時代の道具は大きく見て二つに分かれています。一つは「第一の道具」と呼ばれるもので、煮炊きに使う土器や矢の先につけで動物を倒すのに使った石鏃、木を切るのに使った石斧など、直接生活にかかわりがあり、なけれぱ幕らしてゆけない道具です。もう一つは「第二の道具」と呼ばれるもので、変わった名前が多く、しかも名前のような使い方をしない不思議な道具です。口上林で見つかっている石刀は、刀の形を石で作っているから。石冠は、石で作った形が冠を思い起こすからついた名前です。他にも土で作った人形だから土偶だとか、御物石器という何が何だか分からないものまであります。

 実はこうした第二の道具はお祭りやお析り、お守りに使った道具なのです。現代に生きる私たちでは、どのように使ったのか想像もつかない道具ばかりで、なくても生活はできるんじゃないかと思ってしまいます。しかし、縄文時代の人びとにとっては違います。

 彼らは自然に対してとても気を使っていました。というのも動物や木の実などの食べ物、家を造る木や草、道具を作る石、ケガや病気にいたるまで、すべて自然が与えてくれたものだからです。彼らが自然を讃え、自然の怒りを鎮め、自然に感謝し願い事をするとき、第二の道具が人間と自然とを結ぷ架け橋の役目を果たしていたのです。

 環境を破壊し、便利さを求めて自然の中で暮らすことを望まない現代人が、第二の道具の使い方を忘れてしまったのは当然です。

 あなたには、石刀や石冠の使い方を思い出せるでしょうか。(三)

3 イモ穴? 横穴?

 発掘調査の基本は土の色を見ることである。一般的に、地面を掘って造った建物や柱穴・溝・ゴミ穴・墓穴などには、黒土が入り込む。昔の地面の色は黄色が多く、耕作土や山土を取り除くと現れる。この黄色い地面に、黒土が丸く、四角く、紬長く、浮かび上がり、ここを調べると昔のようすが分かってくる。

 (財)京都府埋蔵文化財調査研究センターの引原茂治さんは、昭和62年の早春、綾部市小呂町にある粟ケ丘古墳群の調査を担当していた。古墳群の調査もようやく一息つき、何気なく工業団地の造成工事に目をやると、視線を引き寄せるものがある。

 もしかしたら、と近寄ってみると案の定、削り取られた斜面に逆台形をした黒土が見える。古墳の真下にあたり、横穴墓に連いないと引原さんは直感した。

 横穴墓は斜面に横向きの穴を掘り、部屋を造ってお墓にしたもので、埼玉県にある吉見百穴横穴墓群は教料書などにも登場して殊に有名である。年度末でもあり、関係者を説得して調査は次年度へと持ち越した。

2号横穴(府遺跡調査報告書第13冊から)

 しかし、心配はあった。横穴墓の形や造り方は現在でも見られるイモ穴によく似ている。

しかも、横穴墓は京都府内では丹後や南山城に数多くあることは知られているけれども、丹波ではほとんど知られていない。

 だから栗ケ丘での発見した黒土の落ち込みは、イモ穴の可能性がないわけではない。同僚も「調査したらイモがでてくるんじゃないですか」と声をかけてくる。

 発見から半年後の昭和62年夏、調査は始まった。黒土を取り除くとそこには赤い土器・青い土器が見えてくる。不安は吹き飛んだ。やはり横穴墓だ。全部で3基見つかり、栗ケ丘横穴群と名がついた。

 発見は横穴墓だけに留まらず、土壙墓も10基が新たに見つかった。栗ケ丘は古墳・横穴墓・土壙墓という異なる形態の墓制が同居しており、特異な在り方をする群集墓として一躍脚光を浴びることになった。

 調査担当者の注意力、そして熱意と情熱が新たな発見をもたらすことがしばしばある。(三)

 

4 洪水の日

 発掘担当者はいつも明日の天気が気になってしかたない。特に、梅雨時や台風シーズンには天気予報が気にならない日はない。

 平成2年9月の台風は風雨をもたらし、由良川流域を大きな洪水が襲った。昭和58年9月以来、7年目のことである。(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターでは、昭和59年から舞鶴市志高遺跡・桑飼上遣跡と由良川改修に伴う発掘調査を毎年行ってきた。その最終年度に襲ってきた洪水である。

 不運なのは桑飼上遺跡を担当していた岸岡貴英さん。辺り一面は濁流に飲み込まれている。きれいに掘り上げた発掘現場は水没し、現地のプレハプは押し流されていて跡形もない。

 日本海まで流されてしまったんだろうか、と岸岡さんは心配した。しかし、水が引いてから現地に行ってみると、プレハブは近くの桑畑につぶれて残っており、ホッと胸をなで下ろした。

 現代だからこそ、ダム建設や河川改修などの治水事業が進み、洪水の回数もかなり減ってきている。こうした治水が進んでいなかった古代の由良川流域は、ほぼ毎年のように洪水に見舞われていたものと思われる。

玉類(府遺跡調査報告書第19冊から)

 桑飼上遺跡は由良川沿いの微高地に営まれており、直接洪水の影響を受けていた場所にもかかわらず、弥生時代から奈良寺代を中心として長期間集落が続いていたことがわかっている。

 なかでも、古墳時代中期から後期にかけては10棟の竪穴式住居跡が発掘され、不思議なことに臼玉がたくさん出土している。臼玉は数多く連ねてアクセサリーにしたものである。床に一固まりで置かれていた住居もあるが、住居を埋める土の中から出土する方が圧倒的に多い。担当者は流れ込んだものと考えている。

 もしかするとこの臼玉は1500年余り前のある日、襲ってきた洪水によって押し流されたものかもしれない。だとすれば、その持ち主はうまく逃げ延ぴることができただろうか。家族は、住まいは、ムラは、どうなったのだろう。心配になる。(三)

 

5 装身具は嫌い?

 老若男女、「私は装身具の類は嫌いです」とおっしやる方は、皆無とまではいかないものの、ごくわずかではないかと思います。これは今に始まったことではなく、一気に時代をさかのぼって縄文時代、私たちの祖先も装身具に凝っていた様子をうかがうことができます。当時の人びとがどのような装飾品を身につけていたか実例をもってみなさんに紹介いたしましょう。

 場所は舞鶴市桑飼下、由良川南岸に位置する桑飼下遺跡より、「土製耳飾り」なるものが出土しました。現在ですと耳飾りは、イヤリングとピアスの2種類を挙げることができますが、この土製耳飾りはピアスに近い型のもので、耳たぷに孔(あな)をあけ、その孔にはめ込むというものです。

 図に描かれているのが、桑飼下遺跡より出土した土製耳飾りです。その形からの連想によって「滑車形耳飾り」「臼形耳飾り」とも呼ぱれています。合計11点が出土しました。

 遠く大陸、中国・漢の時代には、「珥とう(じとう)」と呼ぱれる臼形耳飾りが使用されていたといわれています。

 大きさは、直径約3.5センチ前後のものが多いのですが、直径約2センチほどのものもあります。この大きさの運いは耳に孔を開けたときは小さめのものを、慣れるにしたかって大きなものを、と推定されます。

 外見はというと、素焼きのままの淡掲色のものが多くを占めていますが、中には漆塗りのものや、丹塗り(赤い顔料を施す)のもありました。更に色だけではなく、簡単な彫刻を施したものもあります。この土製耳飾りは、主に東日本において発展したもので、桑飼下遣跡で出土したものよりも更に精巧な美しい紬工のものが見受けられます。当時の東日本からの文化的影響の一端を、この土製耳飾りから垣間見ることができるといえるでしょう。(垣)


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