6 謎の穴 -二人の主張-

 綾部市豊里町では近畿自動車道の建設に伴って、三宅遺跡の調査が行われた。三宅という地名は、古代大和朝廷が直接支配した士也域の呼び名である「屯倉」に由来しており、稲を納める倉庫などの建物が設けられていた。

 三宅遺跡の調査を担当していた財団法人・府埋蔵文化財調査研究センターの竹原一彦さんは、期待に胸を躍らせた。調査を始めるとすぐに、人がすっぼりと人ってしまうような大きな穴がいくつも出てくるからだ。しかも、相当大きなものになる。屯倉の建物跡の発見だ。

 

 ところが、調査を進めるにつれて穴の数は増える一方である。調査が終わるまでに573基にもなった。発掘現場は穴ボコ状態である。文字通り足の踏み場もない。時代も「屯倉」の時代よりも古い弥生時代末から古墳時代初めのものが大半を占めている。屯倉の発見の夢はもろくも崩れてしまった。

 それでは、このおびただしい数の穴は何なのか。穴は、今でもゴミ穴・貯蔵穴・柱穴・野井戸・肥溜め・土採り穴・落とし穴・墓穴など様々な目的で掘られている。この様に穴の用途は多いだけに、遺跡の調査で見つけた穴が何なのかを特定することは簡単ではない。

 そこで担当者は、観察をする。穴の形や深さ、大きさ、穴の埋まり方、土の色や質、穴と穴との位置関係、穴から出土する遺物などを。さらに同じ様な穴が外の遣跡でも見つかっていないかを調べる。化学分析を試みる場合もある。

 竹原さんはこうした作業を積み上げて、弥生時代から古墳時代初めの庶民の墓が、密集して造られた地或であると結論づけた。ところが、同じセンターの奥村清一郎さんは同様のやり方をしながら、粘土採りの穴が密葉した地域であると結論づけている。二人は仲が悪いわけではない。見解の相違である。観察の仕方にも担当者の個性が出ていて面白い。

 発掘調査の担当者は、期待に胸を躍らせ、そして頭を悩ます毎日なのである。(三)

7  小さな石室

 みなさんは、古墳の調査をご覧になったことがありますか?、

 古墳といえば、高く盛り上げられたマウンドと豪華な副葬品の数々が華やかでわかりやすい、遺跡調査の花形です。当然、世間の関心やマスコミの報道も、そうした「きらびやかな」面に向かいがちです。しかし、実際の調査では、あまり世間の注目を浴びない地味なところで、意外な発見をすることが多いのです。

 下山古墳群。福知山市街地の南西の山中に、直径10mから20mの大小さまざまな古墳100基余りが密集して造られています。「ポコポコ」と地面が盛り上がった、“風疹(ふうしん)”にでもかかったような異様な光景です。

 この古墳群を調査した時でした。古墳の周囲の、何もないと思っていた所に、石がかたまっているのを発見。土を取り除くと小容な石室が現れました。マウンドがなく、調査前にはわからなかったものです。

 小石室は、奥行きが1mで幅50cm高さ30cmと、普通、大人は入れない大きさでした。「体を析り曲げて納めたものなのか、それとも火葬したのか」。通常の横穴式右室と比べ、非常に小さなもので副葬品もありませんでした。こうした小石室が、古墳の間に点々と見つかったのです。

下山古墳群から出土した小さな石室

 古墳は、豪族と呼ばれる有力者の墓です。しかし、小石室は小さく貧相な物で、とても有力者の墓とは思えません。「だれのための墓なのか」、「子どもの墓なのか」答えが出ません。調査を進めるうちに、小石室は7世紀の中ごろに造られ、それ以前には造られていないことが判明しました。このことが、小石室の謎(なぞ)を解く一つの鍵(かぎ)となりました。子どもの墓なら、もっと前から造られていてもいいはずです。

 7世紀中ごろといえぱ、古墳時代から奈良時代ヘと移り変わる時期で、社会の仕組みも大きく変化しました。「これまで許可されなかった人たちまでも古墳を造ることが許されることになったのでは」。そうした視点から改めて小石室を眺めてみると「許された石室は、副葬品がなく非常に小さいもの。しかし、忠実に大きな横穴式石室をまねている」。そこには、ようやく古墳に葬られることができた喜びや、横穴式石室を造ることへの切ない憧(あこが)れにも似た気持ちが伝わってきます。

 庶民の記録は、ほとんど残っていませんし、庶民のことはほとんどわかっていないのが実情ですが、下山古墳群の小さな石室は、そうした庶民の気持ちを教えてくれる数少ない遺跡の一つです。(崎)

8 蛇行する剣

 平成元年の夏、綾部市七百石町の奥大石古墳群の発掘調査が行われたとき、府埋蔵文化財調査研究センターの小池寛調査員は、風変わりなものを発見した。それは一振りの錆びた鉄剣であった。

 言うまでもなく、普通「剣」というものは、その身がまっすぐにのびているものだ。ところが、彼が掘り出したこの全長70cmほどの長剣は、よく見ると、波うつように身が蛇行していたのである。もちろん、永年埋もれている間に土圧で曲がったとかいうものではない。最初から曲げて作られている剣なのだ。

 この種の剣を考古学の世界では「蛇行剣(だこうけん)」と呼んでおり、九州を始め各地から散発的に40点ほど見つかっている。全国の古墳からこれまで出土した、おそらく何百、何千の普通の直身の剣の数に比べれぱ、その数は決して多いとはいえない。

 この蛇行剣については、多くの解釈があるようだが、お.おむね、その形状から実用の武器ではなく、儀式やお祭りに用いるものと考えられている。

 奥大石の蛇行剣には、身部に鞘(さや)の木目が付いて残っていた。従って鞘に入れられて古墳に納めたものであることが分かる。

 さて、この鞘の説明を現場で小池調査員から受けた某新聞記者が悩んだそうである。「いったい、どうやって曲がった剣を曲がった鞘に入れるんだろう」

 彼が一晩、悩んだ問題に対する小池調査員の解答は明快だった。

 「鞘が『曲がっている』と思うから悩むんですよ。鞘は、曲がっている剣身の最大幅でまっすぐに作ればいいんですよ。ほら、その証拠にここに付着している鞘の木目を見てください。木目はまっすぐで剣身のようには曲がっていませんよ」(近)

9 木と石の棺

 あまり明るい話題とは申せませんが、今回は古墳時代の死者を包む「ひつぎ」を訪ね歩いてみましょう。

 「棺」・「枢」と書いて「ひつぎ」と読みます。棺は、「墓に遺体を納める箱」、枢は「遺体を納める箱」てす。「なんだ、同じじゃないか」とおっしやられるてしょうが、考古学者はその微妙な違いにこだわります。

 墓のある現地で組み立てるのが「棺」、現代のように霊枢車に乗せて持ち運べるのが「枢」と言えるでしょう。

 さて、古墳時代の「ひつぎ」は、ほとんどか「棺」にあたり、たいていは木(木棺=もっかん)と石(石棺=せっかん)で出来ています。福知山市カヤガ谷古墳群では9基の古墳が発掘調査されまレた。そのすべての埋葬施設に木棺か用いられていました。棺そのものや遺体は、長い歴史の間に腐朽して土と入れ替わっていましたが、土の色・質を見極めることで棺の輪郭や構造を復元することができます。

 後に聞いた話ですが、この調査に参加した方が調査の担当者のいうがままに「棺の内部」とするところを、「ほんまかいな?。骨でもでるかいな」と半心半疑で掘っていると、ほぼ間違いなく剣や刀がそれに平行して出土し、いたく感激したといわれています。

 これは良かった例で、発掘調査は常に土の色・質との戦いに明け暮れます。

カヤガ谷古墳群 3号墳の木棺の痕跡

 一方、同じく福知山市にある薬王寺古墳群は5基からなり、うち2基は石棺、ほかは木棺が用いられていました。石棺といってもせいぜい6〜10枚の板石を使ったささやかなもので、基本的な構造は木棺と同じ、違いは材質だけといえます。

 一般的に石棺は、弥生時代から続く原始的な葬法とも見られがちです。しかし、ここ丹波地方においては特に弥生時代に石棺が多いとはいえず、むしろ石棺の多い古墳時代の丹後などとの地域的なつながりを考えた方がいいかも知れません。

 案外、「私は石のほうが好きだ!」「あんな棺のほうがいい!」といった個人的な好みだったりするのかも知れませんね。(八)

10 最後の竪穴住居

 政治改革という言葉をよく耳にしますが、古代最大の政治改革といえぱ7世紀中ごろの「大化改新」ではないでしょうか。いろいろな疑間点もありますが、人々の暮らしにいろいろな変化をもたらしました。

 その時、出された詔に「薄葬令」と呼ぱれるものがあります。身分に応じて古墳の墳丘と石室の大きさ、造墓に従事する役夫の人数とその日数を規定しています。最後の古墳「終末期古墳」に大きな影響があったに違いなく、やがて8世紀には古墳の姿を消して行きました。

 それでは、生前の住処(すみか)である住居の方はどうでしょうか。古代の住まいといえば、竪穴住居と掘っ立て柱建物ですc竪穴住居は、地面を円形・方形に掘りくぽめ壁とし、これに屋根をかけたもの=イラスト。

 掘っ立て柱建物とは、地面に柱を埋める穴を掘って柱を立て、それに壁と屋根を取り付けだものです。こちらが、都会的で進んだ建物です。近幾の中心蔀では飛烏時代(7世紀)には、竪穴住居中心がら掘っ立て柱建物へと姿を変えていき、竪穴住居の方は姿を消していきました。政治改革の流れは住まいの変化も促したに違い有りません。

 しかし、福知山市多保市の多保市遺跡で、それまで近畿地方では予想されなかった奈良時代の竪穴住居跡が検出されました。一辺3.0m×3.4mの方形で、北東コーナー部に作り付けのカマドをもつ小規模なものです。

 「そんなはずはない」、「何がのまちがいでは」。この報告を最初にした時の多くは、こんな反応でした。しがし、住居跡の中から出てきた土器は明らかに、この時代のものです。

 それまでの考えでは、由良川流域でも、奈良時代の堅穴住居は存在しないと思われていました。しかし、依然として最後の竪穴住居に住んでいた人々がいたのです。これ以後、綾部市、舞鶴市でも8世紀の竪穴住居跡が確認されていきます。

 新しい政治の流れも、情報が一瞬に世界に伝わるような現代と違い、地方にゆるやかに、おおらかに広がっていったのでしょう。(藤)

 

11 嫁入り道具

 「これは弥生土器。2000年前のものです」と説明すると、「何で分かるの?」と聞かれることがある。「時代によって土器の形や焼きに特徴があるから」と答えている。

 時代によって土器の特徴が変わるように、地域ごとに特色のある土器が作られた。土器は誰(だれ)が作るのだろう。民俗例を調べてみると、日常使う土器は女性が作り、商品とする土器は男性が作る割合が高いという。弥生時代はまだ自給自足の時代。弥生土器には口の小さなものがある。細部の仕上げをしようにも無骨な男の腕など到底入らない。だから弥生時代の土器は女性が作った、といわれている。男女の役割分担があったのだろう。

 煮炊きをするにも、盛り付けするにも、貯(た)めておくにも土器がいる。家庭の必需品であった土器を上手に作れるようになることが女性として認められる条件だったのかもしれない。

 例えぱ由良川の中・下流域ではよく似た形の土器ばかりが使われる。そこで、同じ特徴をもつ土器が広がる範囲を女性が嫁ぐ範囲と考える研究者もいる。

 発掘調査をしていると、地元で作った土器に混じって、明らかによその土地から運ばれてきた、と分かる土器が出ることがある。綾部市青野遣跡では昭和55年に行われた第4次調査で、住居跡らしきところから風変わりな土器が出た。弥生時代の終わりごろのものだが、このあたりの土器とはまったく違う。調べたところ滋賀県あたりの特徴をもつ土器だと分かった。土器は人が運ぷ。いったい何の目的で。交易かそれとも一一。

 花嫁はやってきた。いくつもの山並みを越え、遠く近江から。嫁人り道具は土器ひとつ。土器作りの腕を披露する自慢の土器だ。でも故郷の土器はもう作れない。思い出のこもったこの土器、大事に使っていたのだろう。男女の役割分担は、厳しい自然を生きぬくための知恵だった。でも今は違う。ただ生きるだけではなく、どう生きるかが間われる時代になっている。(三)

12 古代の眺め

 昭和60年の初夏、大江町の河守地区を金屋の山から見たことがあります。由良川の流れを縁取るように広がる桑畑と水をたたえる水田が広がる風景には日本的な情緒があります。

 実はこの風情のなかにも古代の遺跡が息づいています。河守地区の水田をよく見てください。東西・南北の方向に畦(あぜ)や水路が走っていることに気づくでしょう。特に大きな道路や用水路をなぞると、一町(約109m)四方の碁盤目のような土地区画が浮かび上がってきまず。条理地割です。大江町誌のなかで芦田忠司さんは、明治初年の地籍図や現地調査などをもとに河守地区で面積27町分の条理地割を復原しています。大江町内では金屋・波美、阿良須、二箇でも条理地割がみられます。由良川流域では綾部・福知山で部分的に残っているだけで、とても重要な景観です。

河守地区航空写真(上が北)

 では、この条理地割はいつできたんでしょうか。古代、土地を国が管理していたころ、農民は6歳になると一定の面積の田が与えられました。班田収受の法です。田を分配するには土地の区画を整理しておかなければいけません。つまり、条理地割は古代の圃(ほ)場整備なのでず。班田収受ほ7世紀後半から8世紀にかけて行われました。宮福線の工事に伴う発掘調査でもこの時代の土器が出土していますから、河守地区の条理地割は奈良時代から平安時代の初めごろまでさかのぼる可能性があります。おそらく千数百年もの間、同じ風景のなかで秋の収穫を迎えてきたのでしょう。

 食卓の多様化、人手不足、輸入自由化、後継者難。弥生時代以来、重要な産業として位置づけられてきた米作りの抱える問題は多く、耕地面積は次第に減少しています。一方で、宅地化される農地や耕地整理で集約化される農地が増加し、今日まで農地が守ってきた歴史的な景観や遺跡遣も消え去ろうとしています。あれから10年、河守地区では鉄道が開業し、新しい町並みもできました。ここでも古代の景観は現代の景観に変わりつつあります。(三)

13 緑の光沢

「こんなもん出ましたよ!」と叫ぶ声がする。胸躍る瞬問だ。昭和62年、近畿自動車道が通る綾部市小西町の小西町田遺跡の調査を手掛けていた時のことである。行ってみると、深緑色をした焼き物が顔をのぞかせていた。

「えっ!」と思った。緑釉(ゆう)陶器という約1000年前の土器だ。皿の形をしているが、ただの皿ではない。耳がついている。耳皿だ。普通の遺跡ではめったに出るものではない。耳皿は今の箸(はし)置きである。当時、一般的な食器は土師器や須恵器という素焼きの土器だった。緑色の光沢がついた緑釉陶器は高級な焼き物である。もちろん高貴な人しか持てない。滅多に出ない緑釉の耳皿は平成5年、舞鶴市倉谷の倉谷遺跡からも見つかった。

緑釉陶器(亀岡市篠窯跡出土)

 小西町田遺跡と倉谷遺跡では共通点が多い一。

@硯(すずり)が出ていること。硯は文字を書くための道具である。1000年前というと平安時代。当時、文字を知る人は限られた知識人だけだ。実際、小西町田遺跡では土器に字を書いた墨書土器が出ている。残念だが、字は読めない。

A庇(ひさし)をもつ掘っ立て柱建物跡があること。母屋と庇とを分けることで、母屋を格の高い空問として位置づけたのである。だから、ここには立派な建物が立っていたはずだ。

G耳皿に限らず、緑釉陶器が多く出ていること。高級な焼き物といっても緑釉陶器は日用品ではない。儀式に使う土器である。倉谷遺跡では土馬が出ている。やはり儀式に使う道具である。

 それでは「平安時代、地方の立派な建物で儀式を行う高貴な知識人」はどんな人?

 僧侶(そうりょ)か役人である。でも寺院なら瓦(かわら)が出土するはずだが、出ていない。そうすると役所があった可能性が高くなる。ではどんな役所があったのか、残念ながら私の推理もここまで。周囲の調査が進んで、新しい資料が増えたとき、答えは出される。

 こうした推理もまた、歴史の楽しみ方だ。あなたも古代を推理してみては。(三)

14 馬と竈

 さて、お立会い。ここに取りいだしましたるは、馬と竃(かまど)でごさいます。これらは、綾部市新庄町の長(ちょう)遺跡というところでみつかった二品の焼き物でございます。頃は飛鳥時代、今から1300〜1400年ぐらい前のもの。

 まずこの馬のほうでありますが、ささっ、もっと近寄って、別に噛(か)みついたりしませんよ。これが目でこれが口ね、これがたてがみですな。脚が4本とも無いって?そのとおり、脚は全部折られておりまして、これが大変大事なことなのであります。

 すなわち、当時の人々は、凶作や疫病などの災いは鬼たちのなせる仕業と考え、馬に乗った鬼が災難をふりまくものと信じておりました。そこで、馬形の焼き物を作ってわざと脚を折り、鬼たちが暗躍できないようにしよう一まあそういう意味で作られたものなのですな、これは。

 次に竃でこざいますが:竃は一家のご飯を作る所。そんな大事な場所には当然、神さんがいらっしやるわけです。そこで人々は竃に向かって、日々の安全や家族の幸せをお祈りいたします。

 ところで、この竃の神さん、年に1回、その家の住人の様子を天の神様に報告にいくそうです。まあ何もうしろめたいことのない人はかまわないわけですが、人問だれしも完璧ではありません。悪事とまではいかなくても、ちょっとした嫉妬や意地悪をしたりすることもあるわけで、年によっては天の神様に報告されては困ることもありましょう。そこで、竃の神様の乗り物である馬の脚を折っておけば、あるいは竃を壊して神様を封じておけばよいのではないかと考えたのですな。とはいっても、まさか本物の馬の脚を折ったり、実物の竃を壊したりすると大変ですから、焼き物をこさえて代用した一とまあ、こういう次第なのであります。

 え、あんたのいうてること、それほんまかいなって?

 いえね、これは私が言ってるのではなく、オカルト考古学の権威がそうおっしゃっておられるんです。偉い先生がそう言うのだから、たぶん・・・。

 おあとがよろしいようで。(近)

15 山城と竹林

 一昔前までは、いたるところに竹を利用した物がありました。おむすびを竹の皮で包んだり、篭(かご)や笠(かさ)など様々な物に竹細工は利用され、軽くて丈夫な材料として日常生活の中に入り込んでいました。また、非日常な物としては、戦の際に竹槍(やり)や弓矢としても使われていました。

 その名残としてか、今でも中世の山城を登ると、竹が群生していることがよくあります。中世の山城は、私たちが普段イメージするような、姫路城に代表される平地に天守閣が荘厳にそびえ立ち、堅固な石垣の周りに堀を巡らす近世平城とは異なります。

 山城は、その名の通り山を切り開いて造った自然の要害で、頂上に主郭(しゅかく)を中心として、山腹に曲輪(くるわ)や堀切を配して城を構成しています。

 由良川沿いには、交通の要所であったこともあり多くの山城が残されています。由良川河口域には、丹後国守護であった一色義道が自害したと伝わる中山城が要所を押さえ、その周辺にも要所ごとに簡素な砦(とりで)を築き、敵の襲来に備えていました。

 三庄太夫(さんしょうだゆう)城ケ腰遺跡もその砦の一つです。この砦は、中山城か ら由良川河口までの河口一帯を展望し、河下から攻め上る敵の襲来の際に中山城へ狼煙(のろし)で連絡をとるための砦であったろうと思われます。そして、敵襲来の際には、城の南斜面に生えている竹を切り、槍などの武器にして戦いを繰り広げていたことでしょう。しかし、中山城は明智・細川率いる織田の軍勢に攻め滅ぼされ、他の城やこの砦も同じ運命をたどったに違いありません。

 鉄砲の大量導入などにより戦の近代化をいち早く成し遂げた織田勢と、竹槍や山城といった昔からの戦の方法の丹後・丹波国勢との戦いであり、由良川流域は戦国時代の終わりを告げる織田勢力という波の中に呑み込まれていったのです。(松)


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